2020年11月17日
工藤玲那 : ルールや制限のない「遊び」

Hong Jisoo(美術評論家、芸術学博士)

クレイアーク金海美術館の出版物より引用

​喜びと同じくらい奇妙なキメラ

工藤玲那のオブジェは不思議だ。人間とも動物とも特定できない新種の標本のようである。ギャラリー内には、人間と動物の合成や遺伝子組み換えによって生まれたと思われるキメラが、しゃがんだり、横たわったりしてる。展示台の上には、4つの円筒形をL字型に曲げたオブジェが置かれ、その中心には少女の頭部が取り付けられている。その形は突然変異が進行していることを示唆しているが、怪物を連想させるようだ。床には、鹿と犬を掛け合わせたような動物のようなものが立っている。餓鬼のような細長い4本の脚が、かたい体、長い首、小さな頭の重さを支え、不安定な様子を見せている。しかも、その首は後方にねじれている。また、首は頭や体に対して不釣り合いなほど長い。よく見ると、その顔は動物のものではなく、人間のものである。色鉛筆で目と鼻と口と思われる線を描いただけの幼稚な絵である。このような淡々とした、不正確な、子供のような表現は、実物を忠実に表現するには不十分かもしれないが、作者が感じたことを伝えるには十分な忠実さがある。

半人半獣の区別がつかず、臓器すら持たない奇妙で曖昧な存在は、実際の動物の解剖学的構造とは一致せず、体や目や鼻や口がおおよそわかる程度である。しかし、その姿はグロテスクでもなければ、奇怪でもない。子どものお絵かきや粘土細工を思わせる表情、手で型取りしてプレスした粘土の自然な物性や触感、パステル調の明るい色合い、小さなサイズ、かわいらしい顔や表情、寝そべったりしゃがんだり、何かに寄りかかったりする静止姿勢、それらが不快感ではなく、むしろ同情や好奇心を起こさせる。それは、宮崎駿の半獣半人のキャラクターや、奈良美智の子供のような無邪気さと凶暴さが同居する少女たちの表情に似た、親しみやすい不気味さである。

 

種の境界や領域を超える自由な旅人

工藤玲那の作品は、人間、植物、動物、そして鉱物まで、多様な生態系を描いている。その世界では、人間を含むあらゆる生物種に階層性や直線性がなく、自由に身体から切り離され、他の生物のパーツと組み合わされる。個々の個体は、あるメッセージや象徴性を持っているのではなく、作家がどこかで見たもの、ふと頭に浮かんだアイデア、特別に好きなもの、感じたことが具現化されたものである。それらのアイデアは、因果関係や前後関係、物語性といったシステム化を前提としないため、作品を制作年や制作順で分けたり、意味や象徴性を見出そうとしてもあまり意味がない。彼女にとって、世の中のあらゆる存在を特定できる分類法も、作品のフォルムの特徴も、目に見えるモノや現象を指しているに過ぎないのだ。その殻の下には、抑圧された対象を分割したり分類したりすることとは無関係に、絶え間なく変容していく世界がある。作家はただ、自分の望むように、感じるように、世界を明らかにする。 

作家は、種族や領域を超えて、トランスヒューマンな想像力、SF映画やアニメーションへの愛着、そしてそれらが幼少期に与えた大きな影響について語る。幼少期からインターネット文化に慣れ親しんだ若い世代であり、日本のアニメなどの映像文化に精通している彼女は、コンピュータやカメラが現実に介入し、再構築し、あるいは変換する不思議な力に賢く反応し、その力を自らの芸術言語として活用することに長けているようだ。アニメーションや映画、インターネットが彼女のフィクションの対象に与える影響は、2017年の「anima」シリーズで明らかにされている。ミッキーマウス、バットマン、スパイダーマン、スヌーピーといったアメリカのアニメキャラクターや、鉄腕アトム、スマーフ、ドラえもんなどの日本のキャラクターが登場する。しかし、彼女が参考にしたのはオリジナルではなく、無名の匿名のネットユーザーが描いたり想像したりしてネット上で集めた画像だったため、その姿はどこか不格好で不器用なものだった。他人の目と頭で解釈し直したものを原画として使うことで、原画の二番煎じを再現するという、原画からさらに一段下がった作品になっているのである。 

原作者が作ったキャラクターが実在しないことは、誰もが知っている。デジタル世界における数個の電子の配列、ピクセルの組み合わせとしてのみ存在する架空のイメージ、アイコンに過ぎない。しかし、有名なアニメや映画に登場するキャラクターは、実在の人物よりも身近に感じられることがある。皮肉なことに、そのキャラクターが有名であればあるほど、そのイメージはステレオタイプになる。そのため、そのようなキャラクターを想像で模倣した結果、形が不格好だったり、誇張されていたり、色が違っていたりすると、誰でもその違いや不格好さを簡単に見分けることができる。作家は、原画から逸脱した不正確な再解釈を集め、さらに粘土を使って自分なりに再解釈し、二次創作を行った。歪み、変容したキャラクターを通して、私たちの認識、そしてその認識によって構成される世界がいかに修正され、歪んでいるかを作品に表現している。

 

私の遊び、あなたの参加、そして私たちの娯楽 

人気アニメのキャラクターを見て、それを真似して描こうとしても、想像で描こうとしても、その人の知識や経験など無意識が反映される。これは、アーティストがその作品を二次創作として「オリジナル」にする場合にも同じことが言える。無意識の中にあるものが十分に発揮され、表現されていれば、慣習や馴れ合いの惰性から離れ、新鮮な変容を生み出す可能性が高くなる。現実世界には存在しないような奇妙なハイブリッドを生み出すには、作家自身が現実世界の既成のシステムや認識から逃れようとする意志を増幅させる必要がある。自分の世界と外界の間で異質な要素が頻繁に出入りすればするほど、その逃避は加速され、突然変異が現れる。そのために、多くのアーティストが、多様な人々との出会いを楽しみ、自らのアイデンティティを新しい見知らぬ世界にさらそうとする。 

その点、工藤玲那は極めて恵まれた文化的背景と経験を持っている。中国と日本を祖国とする両親のもとに生まれ、幼少期を日本や海外のさまざまな地域で過ごし、二つの異なる文化を自然に体験し、受け入れてきた。そのため、彼女にとって、ある土地に数ヶ月あるいは数年滞在することは、定住することではなく、いつ訪れるかわからない次の旅立ちのための一時的な小休止に過ぎないのだ。子供の頃から引っ越しが多く、世界各地のアーティスト・イン・レジデンスで荷物をまとめて新しい土地に移ることに慣れているせいか、日本、インドネシア、アメリカ、そして今回の韓国と、頻繁にレジデンスに出かけても不安や違和感を感じることはないようだ。興味深いことに、彼女はこのような突然の往来を、ストレスや負担に感じるものではなく、クロノスの時間における新しい出来事や環境の変化の到来として認識し、淡々と受け止めているようである。私的な空間や領域に「もう一人の自分」や多様な異質な存在を受け入れたフランスの作家のように、多様な他者とのコミュニケーションに違和感や不安は感じないようだ。日本の滋賀県立陶芸の森のレジデンスプログラム*では、別の空間で作品を制作し、完成した作品を展示会場に設置するのではなく、展示会場に住み込み、食事や作品制作などの日常生活を観客と共有したそうだ。そのような観客が彼女に声をかけてプロジェクトに参加しようが、独自に何かをしようが、彼女にとっては問題ですらなかった。(彼女のインタビューでは、この生き方を「プロジェクト」「作品」とも呼んでいない) 

レジデンスや美術館において、ギャラリー空間は、現実の世界に存在しながらも、そこから分離・分割されたアーティストたちの舞台であり領域である。この自分たちの空間の中で、アーティストは何かを許し、何かを言う権利を持っている。しかし、工藤玲那は、自分の展示空間を日常生活の空間とした。しかも、彼女はそこを、もう一人の自分や多様な他者と出会うオープンな空間とし、彼らがその場をオープンな遊び場として変容させ、好きなことをできるようにしたのである。2017年の「anima」では、他の匿名の人々の再現に彼女自身の再現を加えたが、日本のレジデンスプログラムで行われた2018年の「stranger」シリーズでは、彼女の遊びの空間に他者を招き入れたのであった。ギャラリーの空間は来場者と共有され、来場者は彼女の粘土を使った状況的なステージに入り込んだり、粘土の仮面をつけてコスプレ役者として参加したりすることができるのだ。その空間を共有するだけでなく、彼女自身の遊びと他の人の遊びを一緒にすることで、私たちの世界を広げる役割を果たした。それは、偶然の出会いが他人の感情を呼び起こし、新たな絆が生まれるのを目撃し、楽しむことだったのだ。ここでは、アートは他者や日常と異次元につながるチャンネルとなるのである。 

工藤玲那が行ってきた一連の作品において、彼女の役割は、すべての遊びを外から来た他者やアーティストが演じる支配的な指揮官というものではない。むしろ、彼女も観客も、誰もが参加できる開かれた空間に存在し、その活動はいつ結合し、いつ消滅するかもしれない。このように、作家のオープンスペースは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが指摘したカフカのメタモルフォーゼを彷彿とさせる。外から観察したり、命令したりするのではなく、作家は直接世界に入り、人々を集め、彼らが生み出す自由なバリエーション、逸脱、交差を見、喜ぶのである。人気アニメのキャラクターを模した匿名の人々の絵を活用した2017年の「anima」シリーズから、クレイアーク金海美術館の最新インスタレーションまで、その姿や代表的な形は異なっても、作品の方向性は明確に一貫している。彼女は特定の価値観や方法に固執することなく、自分自身や他者を積極的に経験という創造的な世界の客体として招き入れ、見慣れた奇妙さの中に新しい奇妙さを見いだすのである。 

 

決められたルールや制約がないこと  

特に、すべての人が楽しく自由に遊べるような包括的な機会を作ろうとする作者の素材選びと再現の手法に心を動かされる。粘土の可塑性や、色鉛筆やマーカーによるドローイング、写真などの手軽に使える素材やメディアは、ルールや境界線のない自由なプロジェクトを好む作者の本質や制作方法とよく調和している。彼女の作品は、特定の目的や作品として存在するものではなく、楽しい遊びのモードとして成立しており、魅力的である。アーティストなら誰もが重視する、素材や技法を使いこなす洞察力と技術、そして自己の世界への深い没入は、強力な視覚言語となるかもしれない。しかし、時には直感的な遊び心や自由な表現が、より魅力的で力強いものになることもある。作品の目的によって、より適した素材、より効果的な素材がある。メディアの選択も同じだ。表現したい世界観や自分の性格に合った素材や技法、メディアを見つけることが必要である。そして、たとえそれが適切なものであったとしても、効果がなくなったり、寿命が来たりすれば、新しいものを探し続けなければならない。その点、工藤玲那の方向性、素材の選択、表現方法は非常に合理的であるように思える。 

窯で乾燥させたり焼いたりしているうちに、作品が壊れたり爆発したりしても、それをもどかしく思ったりストレスに感じたりすることはない。これは、絵画を専攻した後、独学で陶芸の教育を受けたことが影響しているのだろうか、ドローイングと粘土細工の間に隔たりや階層を感じることはない。また、陶磁器の表面は、割れたり、ヒビが入ったりした場合、釉薬や化粧でごまかすのではなく、割れた部分やヒビ、糊を塗った跡をそのまま露出させるなど、不測の事態を想定した制作を行う。アイデアやコンセプトが重視される現代美術の流れの中で、完璧さを求めて対象や大きな意味を精緻に描き出すことにこだわらない姿勢、目標を定めないこと、表現の未熟さは、決して軽視できるものではないだろう。彼女はそれらを知らないわけではなく、ただ受け流すだけなのだ。彼女が将来、緻密な技術や素材に対する深い知識、高い完成度を求めないとは思えないし、作ろうとしている造形が予期せぬ割れや破裂、崩壊を頻繁に起こすことを喜んでいるわけでもないだろう。とはいえ、そうした技術や知識を得るためには、少なくともしばらくの間、芸術家は厳格で厳しい規則と訓練に縛られなければならない。何かを成し遂げたり、目標を達成したりすることよりも、人生や仕事を遊びと考えるアーティストにとって、そのような技術や知識を身につけることは、重要な意義や緊急性を持っていないと思うのだ。(時間と経験を積み重ねれば、自ずと解決することなのだろうが......) 

粘土をこねたり、紙に絵を描いたりすることの楽しさを知る前に、技術的な達成や知識ばかりに目を向け、「これで何ができるだろう」と考えるような訓練を受けてきた従来の作家が見落としていること、冒険する余裕がないことを、この作家の作品は思い知らされるのである。それはとても残念なことであり、損失である。不安定なつながり、サーカスのような不思議なバランスのフォルム、思いがけない存在の自由な混成、それが工藤玲那の作品の大きな特徴である。それらは彼女独自の手法と視覚言語によって、新しく特別な世界を見せてくれる。ルールや偏見、慣習、恐れ、重荷にとらわれず、独自のストーリーテリングを展開することで魅力的なオブジェを生み出し、そのプロセスを遊びのように楽しんでいるのが、私にとって最も興味深い点だ。これから先も、自然な変化で新たな思考が生まれる瞬間や、思いがけない「出会い」に幾度となく直面することだろう。そのとき、彼女がどのように大胆不敵に新しいアイデアを生み出し、奇妙な変種や突然変異を起こすのか、私たちは見守ることにしよう。

​*正確には2018年に宮城県石巻市のGALVANIZE galleryで行われた滞在制作